真理の太陽

 第4講 「人間と文明」

 「人間」という字は人の間と書きます。つまり、人と人の間で生きて行くのが人間なのです。これが「人間は社会的な生物である」と言われるゆえんです。
 このような人間ですが、その本質はどのようなものなのでしょうか。いままでの話で人間とは神と同種類の生命エネルギーが分かれた人間霊と肉体という物質とが合体してできた物であるという事についてはおわかりになった事と思います。

 そして、何故創られたのかという事についても、それは神自身がこのような自分の分身達が進化、発展しながら美しく調和する事を願ってこの生命実験をさせているのだという事、そしてこの中に神自身の幸福もまた存在するのだと言う事をお話しました。

 よって、私達人間とは何かと言えば次のように言えるはずであります。
 人間とはこの世とあの世の一切を創造された神により創られた生命であり、その生命自体は永遠の生命を持ち、この世とあの世を循環し、自らの心や精神を鍛え、進化する事を第一の課題として与えられている。そして、第二にはこのようにして創られた多くの仲間達が共に協調し、切磋琢磨しながら美しく調和する事を課題とされている存在であると言う事であります。

 そして、その進化と調和の表現形式としては神の属性のうちのどれかを発揮する事、神の自己実現の一翼を担うという事であります。そして、このように人々が現して行った輝きが集積して文明というものを形作るのであります。
 その時代に現して行った輝きが文明に反映されるのです。そうすると、現代は知性と科学の文明です。人々は哲学であるとか文学など学問の領域を発展させて知性を表現しているわけです。また、自然科学や物理学など科学の発展により様々な恩恵に浴しています。こうした職業に就く人々は有能な人と言われ、社会から優遇されています。人々は知識や業績に大いに敬意を表しています。

 この時代の価値観はこうしたものに集中しているわけです。ところが、現在でも一部の人々は現代社会の批判をしているはずです。たとえば、社会に無関心派が多すぎる、人々は自分の事以外の事にあまり関心がなく、他人が苦しんでいても知らぬ顔で通り過ぎてしまう。冷たい社会になってしまっている。
 たとえば、青少年の非行や自殺問題、家庭や学校での教育に心が失われている。その結果、子供達の阻害感から自暴自棄の行動をとる子が増えている。

 たとえば、性風俗の乱れ。世間にはヌード雑誌などが氾濫し、テレビ、雑誌などでも不倫などを場面を頻繁に取り上げ、マスコミが性の乱れを煽っているようにすら感じられる。 たとえば、環境破壊の問題、特に企業は自分の会社の利益優先で環境への配慮という事にあまりにも関心が薄い。その結果、森林の乱開発、動植物の絶滅問題、大気汚染、オゾン層の破壊問題、河湖の水質悪化などが慢性化してきている。また、家庭においても一般の人々も環境美化に対する認識が薄く、石鹸や料理クズで汚れた水を平気で流し、それがやがて河川を汚染し、海を汚している。

 たとえば、ゴミ問題、現在の日本は大量に商品が出回り豊富な物の中で生活しているのが現状ですが、その反面、消費にともなう大量のゴミの発生とその処理に憂慮している。東南アジアやアフリカでは食糧がなく、飢え死にする子供達が後を絶たないのに、我々日本人は大量に買い込んでは全部食べずに残して捨ててしまったり、正味期限が切れて廃棄される。これが大量の生ゴミとなる。また、各種の商品の包装紙のゴミも毎日大量に出る。このようなゴミをどのように処分するか各種の自治体は頭を抱えている。

 ざっと考えただけでもこうした社会問題が浮かんで来ます。現代は学問が奨励され、人々の知識レベルが高度になっており、科学は発展し、自動車、航空機、船舶、宇宙船などを始めとして様々な科学の利器を利用して、人々の生活は非常に便利で豊富なものになっているわけですが、その反面、先述のような社会悪が蔓延しており、人々の心は他人や自然環境と離れて自分の欲望や自己実現だけに向けられているわけです。

 このような現代文明を分析してみると、進化に片寄っているという事が言えるでしょう。つまり、人々の関心は進歩、向上にばかり向けられており、調和というものにあまりにも関心が無さ過ぎるのです。小さな単位では、自分の知識や地位、あるいは経済的レベルの進歩、向上ばかりを求め、大きな単位では会社の、あるいは社会の各種の機器の進歩やより進んだ施設の建設など、社会の進化を求めてばかりいるわけです。
 そして調和という事にはだだんだん配慮が薄れてきています。たとえば、学校教育から道徳が消えた事もこれを反映していますし、家庭においても昔のように礼節を守ると言うようなしつけはもはや時代遅れのもののようになっています。

 しかし、こうした現状が本当に正しいのでしょうか。現在の私達の生活は西欧の影響の進歩のところのみを受け継ぎ、日本古来から承継してきた調和、秩序というものを見失っているのです。日本という国は聖徳太子が言ったように「和をもって尊しとする」というのが国是であったのです。
 それは、ある時は神々によるまつりごとによって、あるいは儒教のような法の形で、あるいは天皇や将軍の統治というような身分制度の形でと様々に変化してはきましたが、この国のテーマとしては「いかに人々が美しく調和した国を造るか」と言う事が主眼であったのです。これが、この国を造ってきた天上界の神々の目的であったのです。

 これとは違って西欧の神達はどのような目標を掲げていたか、それは「どのように進歩した国を造って発展させるか」であったわけです。このため、これを目的として様々な指導が行われ科学や学問など西洋を中心として発展してきたわけです。それに反してアジア辺りは調和を目標にしてきたため、多少これらの発展は遅れたというのは否めません。しかし、中東を中心として西洋には戦争が絶えませんがアジアには比較的穏和な国が多いというのも事実であります。

 そして今、東洋のこの日本という国に西洋文明が流入してきて、この東洋本来の調和というものに進歩というものが入ってきているわけです。そして、進歩と調和に満ちた国を造り、世界をリードするというのがこの時代の日本に期待されている事であるのです。
 そのためには、単に西欧化して進歩だけを求めていてはいけないのであって、日本の伝統の調和というものをもう一度現代に受け入れられるような形で現し、この両者を融合するという事が必要なわけです。進歩と調和が両方とも必要なわけです。そして、それに従って人々が力強く人生を生きていけるような体制が望まれるのです。

 このように考えてみると、現代文明に欠けているものは明らかに調和であります。家族の中の調和、会社や社会の中での調和、日本と外国との調和、人間と自然との調和など調和の欠如に他ならないのであります。
 こうした関係を調整する原理が早急に打ち立てられなければ、私達日本人も西洋諸国や米国と同じ運命をたどらなければならなくなります。

 1993年初頭の現在においては、こうした国々の運命もつかみきれない状況ですが、まもなく経済危機に端を発して、様々な天変地異や戦争、伝染病などにより西洋文明が崩壊していく様を見るようになるでしょう。このような文明はこれ以上、その存在を許されないところまで来ているのです。
 なぜなら、人間達は自ら造った文明の利器に酔いしれ、おごり高ぶり、エゴイズムに走っています。他人を蹴落とし、環境を破壊または汚染し、自らの生活の裕福さのみを追い求めているのです。そして、あの世など一笑に付して、現に天上界には多くの高級霊がいて、この人達のおかげで現在の自分達の文明がある事にも気づこうとせず、この世はすべて偶然の産物であるとしてわずか数十年の人生がすべてだと思い込み、したい放題しなければ損だと思い込んでいるのです。

 こんな錯誤はこれ以上許されないのです。この思想がこれ以上継続されれば、そこにもたらされる結果は人間どうしの大戦争、残虐行為、生物の住めない環境など恐ろしい社会が現出するのです。まるで弱肉強食の動物の世界が高度な文明の利器を持って出現したかのように、日々生命の不安の中、欲望の虜となった生活が来るわけです。
 この原因は何故なのでしょう。それは、私達人間が決して忘れてはならない事を忘れ、絶対に守らなければならない掟を守っていないからです。

 それは何かと言えば、神との契約であり理であり、神理であります。すなわち、人間が神によって創られたる分身であり、永遠の生命を持ち、この世とあの世を循環しながら神の子としての進歩と調和に満ちた文明をこの世に投影する事を使命とする存在であるという事であります。
 これは、言葉は違えどもいつの時代においても説かれていたはずです。神世の時代の神官の政治や仏教、キリスト教、回教などの教典にもこれらの多くを見る事ができるはずです。そして現にこれらを信仰の対象として、昔の人々は生きてきたはずです。それは、決して知能レベルが幼稚で真実が見えなかったから盲信していたのではないのです。

 いつの時代にも信仰なき時代はなかったのです。確かにその時代のレベルに合わせた説き方はされていますが、その中にはいつの時代においても決して変わる事の無い神理が流れているのです。
 釈迦の時代には、人々は馬にさえろくに乗る事もできずほとんどが徒歩でした。そのような時代に進歩を説いても普通の人々には理解されないのです。だから、反省というものを通し、悟ることによってこの世の苦しみや束縛から解脱することができると説いたのです。

 また、キリストの時代は世間が非常に乱れていて、盗みや殺人などが頻繁に起きていた時代であったのです。そうした時代に彼は生まれ、「汝の敵を愛せよ」と説いたわけです。つまり、愛の力によって人々を混乱から救おうとしたのです。

 中国に生まれた孔子の場合も、戦国の時代です。小さな国々が共に争いあっていた時代に生まれて、人間完成の道というものを説いたのです。徳というものを身につける事によって身を治め聖人君子となる道を示したわけです。彼は霊界や神のことについては何も触れていませんが、これは知らなかったのではなく、こうした事を説いてもその当時の人々には受け入れられる状況でなかったために教育という形でもって大衆布教を図ったのです。

 中東に生まれたマホメットの場合も人々が殺し合う時代であり、そうした事を防ぐために規律ある社会が必要でありました。そして、コーランを世に説いたのですが、彼のコーランは洞窟の中で神霊により通信された内容を彼が紙に書き留め、世に広げたものであり彼自身の宗教的な悟りが浅かったためにその教え自体にも深さがなく、戒律中心のものになっています。そして、「こうした事はしてはいけない。このようにしなさい。」というような感じなのです。このため、中東では現在でも百%の信仰があるにもかかわらず、人々は戒律を守る事のみを信仰と思っているのです。現在のような知性や理性がかなり身についた時代においてはこうした事に対して納得のいく説明が必要であります。それと、彼自身がヘジラと呼ばれるように軍事力によってメッカを制圧した事が災いして、回教の国々には戦いによって正しさを証明する事を是とする風潮があります。このため、その後の時代において中東には戦乱の火種が尽きる事がありません。

 このように過去の宗教は、どれもその時代の制約を強く受けたものであり、どうすればその時代、その国の人々を救う事ができるかという観点から説かれたものであり、そこにはかなりの方便もあったのが事実です。このため、この教えの違いが後に宗教戦争を引き起こす原因にもなっていきました。
 しかし、これらの教えそのものの中には神理の輝きが確かに存在していた事も事実です。そうであるからこそ、戦争をしてでもその教えを守ろうとしているわけです。
 しかし、これらの世界宗教が説かれてから2000年前後の時間が流れており、人々の生活は一変し大きく価値観が変化しています。現代の人々にとってこうした教えが真の救いとなる力は残念ながら持ち得ていないのも事実です。

 だからこそ、今私達は新しい宗教の時代を切り開かなければならないのです。そして、その教えの中心は地域や民族を越えた人類に共通のものでなければならないのです。そして、お互いが争い合う事なく、謙虚に自然を愛して、人類が協調しながら進歩を目指していくようなものでなければなりません。
 このためには、人間の本質が神という巨大なエネルギーの分身であり、この世の物質世界を体験するために肉体に宿っている永遠の生命を持つ生命エネルギーであると言う事、そして、地球という惑星もあるいは太陽という恒星も私達人間と同種類の生命エネルギーが宿っているのだと言う事を知る必要があるのです。そして、神の子として人間どうし愛し合いながら素晴らしい文明の建設に尽くさねばなりません。

 現在のように、血縁者以外は他人と思っていては人類の調和などありえないのです。私達全てが同じく神から創られたものであるからこそ、仲良くする必要があるのです。また、この世の全てが神の創られたものであり、特に地球の環境は太陽や地球により与えられたものであるからこそ、感謝し大切にする必要があるわけです。

 この事に今気づかなければならないのです。ところが、現代の日本の人々は平和に慣れてしまっており、危機感がないのです。だから、こうした事を真剣に考えようとしないわけです。このため、各種の天変地異や様々な混乱が現れてくる必要もあるのです。そうでもしないと、おごり高ぶった人々は謙虚に神の声に耳を貸そうとしないわけです。ですから、こうした危機を回避するためにもこのような神理の普及がどうしても必要であるのです。
 以上が現代の文明の現状です。