真理の太陽

 第3講 「霊界と時間」

 人間とは神と同種類の生命エネルギーが肉体を持って、この物質の世界を生きている存在でありますが、そのエネルギー量には明らかに大きな差があります。
 私達地上に住む人間を縦、横、高さの三次元存在であるとすれば、霊と呼ばれる存在はこれに時間の要素が加わった四次元以降の存在になります。

 つまり、この地上での時間は誰にとっても何年何月の何時何分何秒という時間は共通でありますが霊的世界、霊界においてはそうではないのです。全ての人に適用されるような総体的な時間の流れはないのです。これは私達の地上の感覚では非常に不思議な事のように思われますが、思いというものを考えてみれば良くわかると思います。

 私達が想像するとき、現在の事ばかりではないはずです。過去の事を現在ただ今のように思い浮かべたり、ずっと先の事をこれからすぐ来る事のように想像してみたり、何でも自由にできるはずです。結局、霊の世界とは物質を離れた世界であり、生命エネルギーだけになった世界であり、その世界を大きく規定するものは何かと言えば、それは思いなのです。

 私達の思いとは、水面に出来ては消えていく泡のような何の力もない存在ではないのです。それは一種のエネルギーであり、これ自体が霊的なパワーを持っているのです。神は想像の念によって宇宙を創られたのです。その力と同種類のものであるわけです。
 私達の思いは普通は深く考えない、とりとめもないものがほとんどでありますが、継続的な思い、たとえば作家になりたいというような思いであるとか、やさしい人になりたいとかいう思いはその継続性の力の集積によりより強力な力を持った想いとなります。

 そして、これがさらに力を増したものが念いであり、いわゆる念であります。念力とか言って、手を触れずに物を動かしたり、空中から物を出してみたり、魔法のような事をする人がいますが、彼らはこの念力が非常に強いわけです。
 すなわち、私達の想いは創造作用を持っているわけです。その力は様々なレベルがありますが、究極の神は宇宙を創るだけの大いなる力を持っているわけです。

 ですから、霊界においてはその人の想いが存在形式のほとんどの部分を決定しており、地上のように過去、現在、未来と完全に分けられる世界ではないのです。絶対的な時間の世界であり、各霊人は自分固有の時間を持って存在しているのです。
 この事をもっと端的な表現をするとすれば、この地上の世界とは特殊な世界であるわけです。私達はこの地上の経験から物事を考えますからこうした事を不思議な世界であると思うのですが、実はこの地上の世界が特別に創られた特殊な世界であるのです。

 たとえば、さきほどの総体的な時間の中でしか生きられないのもそうですし、肉体という物を通してしか認識ができない、また表現も行動もできない、つまり肉体の束縛を越えられないと言う事です。病気になったり、老いたり、死んだりなどいうようなものはすべてこの世だけの特殊な経験であるわけです。霊界においては経験できない事を経験させるために特別に創られた世界であるわけです。

 ゆえに、私達の本質は霊的なエネルギーであり、それは永遠の生命を持っているのです。そして、それは神の本質とも同じものであるのです。ところが、神はある日大いなる実験を思い浮かべられたのです。そして、自らのエネルギーを分散し、多くの神霊を創造し、それらの神霊がまた自分達より低次な霊を創造し、基本的に私達は恒星に宿る神霊のエネルギーから創られた人霊であるわけです。

 そして、神は念いの力によって宇宙を物質化し、その中に自分の子供たちを宿らせ様々な体験をさせておられるのです。そして自らも直接あるいは間接に彼らを指導し、宇宙の発展、繁栄を目指しているのです。なぜなら、そこに神としての幸福の源があるからです。神は自分の子供達が限りなく成長し、共に調和して発展していく姿に限りない喜びを感じておられるからです。

 そのために、この世があり、あの世があり、私達の命があるわけです。
 この神から頂いた永遠の生命と現在の体験を有意義なものにすることこそが、神の願いであるのです。私達には完全な自由があります。どんな事をすることもできますし、どんな事を考える事もできます。そして、その結果様々な境遇が巡ってきます。しかし、神は私達がこうした経験を通して本当の幸福を自らの手でつかむことを祈っているのです。限りなく愛情に満ちた気持ちで悠久の時間を待っておられるのです。

 なぜなら、自らの力で幸福をつかむ事の中にこそ最大の幸福があるからです。だから、必要以上の手助けはせずにじっと見守っているのです。私達はこの事を知らねばなりません。私達はたった一人この世に投げ出された孤独な存在ではなく、大いなる神の分身としてその手で幸福な世界を切り開いていくべき存在であり、その姿は絶えず神により見守られているということです。

 このように、この物質の三次元世界には総体的な時間の流れがあるわけですが、四次元以降の高次元世界にはそんなものはないのです。ほんとうに自由な世界であり、時間に対する束縛があまりないわけです。このような特色があります。
 そして、これらの世界は物質世界ではありませんから、生命エネルギー中心の世界であります。そして、そこにもまた大いなる段階差が存在するのです。

 すなわち、これらの生命エネルギーは神から分かれてきたものですがその分かれ方により、それぞれのエネルギー量に違いがあるのです。つまり、神は自らを分霊して自分の子供とも言える多数の神霊を創造し、その神霊がまた分霊により多数の自分より低次な神霊を創造し、それらがまた分霊により多数のさらに低次な霊を創造していったのです。

 このようにして創造されたために無限の広がりを持つ事ができたわけですが、その反面、新しい霊ほどレベルが落ちているわけです。そして、そのレベル差、すなわち生命のエネルギー量の差に応じた役割を担わせて、この三次元の物質世界に生まれさせているのです。私達は人間という生物に宿り、惑星の中に様々な文明を築き、その惑星の生命実験に花を添えるという役目を仰せつかっているわけです。

 このために私達は永遠の生命を与えられ、人間という物がこの地上に存在しているのです。神自身のかなりレベルを落とした存在が私達自身でありますが、この分霊達は自分で進化することによりレベルを上げていく事を許されているわけです。そして、この進化を限りなくやさしい目で見守っておられるのです。そしてまた自分の創った多数の霊達が共に協調しながら繁栄していけることを願っているのです。この大いなる生命の実験の中に神自身の幸福があるわけです。自らが自分が創った低次な分身達に奉仕し、彼らの進化と調和を目指す事に喜びを感じておられるのです。

 さて、霊界には様々なレベルの差が存在するわけですが、人間霊の中でもそれは厳としてあり、その人の心性に応じて大きく分けて6段階に分かれています。これらの段階の違った世界を仮に四次元、五次元、六次元、七次元、八次元、九次元と呼ぶ事としますと、九次元とはこの地球では最も古い霊であり、地球の文明の創世紀から様々な活動をしていた霊が多く、その霊の年齢といいますか、創られて時代はずっと古く、数十億年前であるようです。要は、ここの人々は地球では最も長老に当たる人々であり、多くの経験と知恵を持ち、地球の文明をどのように創造していくかという事に関する最高責任者達であると言えるでしょう。その数はわずか十名です。

 八次元とは九次元の最高指導霊の下で働く人々で、文明の計画を実際に地上に現すために様々な実務を請け負う人達です。こうした人々が仕事を分担し、様々な視野からより優れたものになるよう計画するわけです。そして、そうした計画を担って実際に地上に生まれて文明創りの大きな働きをするのです。歴史に名を残すような偉大な仕事をしてくるのがこの人達の特色です。先の九次元の人達が地上に降りると、救世主として文明の特色そのものを構築するような偉大な仕事をされます。それに対して、この八次元の人々はその文明の中で核となる仕事を担当する人々であります。その数はわずか五百名ほどに過ぎません。この人達は仏教で如来と呼ばれている人達であります。

 次に、七次元とは仏教で言う菩薩の世界であり、私心なき奉仕に生きている人々であります。九次元、八次元の人々は人間としてある程度完成した人達で、それぞれが自分の個性を最高度に輝かせて神の属性の一面を投影する事ができる方達であるのに対して、この七次元以下の人々はまだ完全に自己表現を成す事ができません。いわゆる見習い中の人霊なのです。そのほとんどが創られた年代がまだ新しく数億年くらいの人が多いようで、地球で新しく創られた霊で3億年くらいの霊が沢山います。要は、まだ自己を完全に表現するだけの認識力や行動力などが身についていないわけです。

 ただ、この七次元の人々はこうした人々の中では最も優れた人々で如来を目指して絶えず自己を磨いている人々であり、六次元以下の人達とは違って自己中心的な考えがだいぶ薄れてきており、価値あるものに全生涯を捧げて生きる事ができる人々です。彼らの心にははっきりとした愛があり、その愛ゆえに自らを低くしてその分他の人に尽くせる人達なのです。特に、この七次元と八次元の中間の領域を梵天界と呼んでおり、ここには格的にはほとんど如来と同一視されるような人々がおります。たとえば、天台大師や女神の天照大神や卑弥呼、弟橘姫などもここの人々です。こうした菩薩と呼ばれる七次元の人々の人口も数万人にしか過ぎません。

 このように七次元以上の世界の数万の人々をいわゆる天使と呼んでいるのです。この方々が様々な時代に地上に生を受け、文明の柱とも言うべき重要な仕事をしてきたわけです。エネルギー的にも非常に安定した力を持っており、こうした人々はその時代にどうしても成さねばならない使命を担って地上に生まれるのです。そして、長ずるにつれて自分の使命に気づき、霊界からも大いなる指導、協力を得て偉大な仕事をする人々であります。

 六次元はその上段界、つまり七次元と六次元の中間領域にアラハンと呼ばれる人々が住んでいます。この人達はいわゆる天使の予備軍であり、自らを磨き菩薩へ進化しようと励んでいる人々です。この人々はまだ自分中心にしか生涯を生きて行けないのですが、世の中を良くする事のために情熱を持って働く事ができる人々です。菩薩の卵と言って良いでしょう。

 このアラハン以外の六次元の人々はもちろん、自分中心に一生を生きている人々ですが、こうした人々の中でも何か優れた特色を持っており、その方面で他の人々を指導し、世の中の発展に間接的に役に立っている人々の事を言います。大学教授や科学者、作家、芸術家、高級官僚などに多いと言えるでしょう。人口的には数億人です。

 このほかに諸天善神という霊がいます。これは、六次元の霊人達や地上の人々を具体的に指導したり、援助する事を仕事としている霊人達で大黒天とか稲荷大名神とか色々な役割があります。霊格的には菩薩や如来の方が仕事上、諸天善神となって活動している例も少なくありません。

 五次元の人々は霊界における普通の人々であり、神本来の性質の善というものを体現することができる人達です。自ら積極的に他の人々に善行を施すという所まではできないのですが、機会があれば人々と一緒に善行を抵抗無くでき、普段は特に他の人の迷惑になるような事もせずに生活できる人々です。いわゆる天国の標準的な住人です。その数は数十億人ほどです。

 すなわち、この五次元や四次元の霊達はまだ高級霊と称されるような高貴な霊となっていない霊達でありますが、彼らも永遠の時を経ればやがて高級霊へと進化していくべき存在であり、現在はその勉強の最中にある霊達であると言えるでしょう。そのために、彼らの転生輪廻は過去世の人生の悪い傾向性の修正を目的としたものがおおくなります。特に、四次元の霊はこれが課題となっています。そして、悪い傾向性を修正して善を積極的に行えるようになり、五次元へと進化していくわけです。

 また、五次元の霊が六次元へと進化していくためには、有用性というもの、すなわち自分が社会や周りの人々にとって役に立つ人間として人格が確立されねばなりません。そのためには何かの分野で優れた知恵を持っていたり、技能があったりすることが大いに役に立つわけです。

 四次元霊とは要するに五次元に入れない人々であり、霊界に来てまだ日が浅く、人間の時の感覚をまだ離せないでいる霊や、その霊自体が創られたのが新しい場合など、いわゆる十分に目覚めていない霊が多いのです。ですから、彼らはまだまだ本来の神の属性を十分に発揮するには至らず、善なる行為に自分を進めていく姿勢に欠けているのです。まだ、善の価値が十分に認識できていないという事もできるでしょう。

 これが、いわゆる天国に当たる部分の四次元でありますがこれ以外に地獄と呼ばれる世界があります。
 地獄とは昔から様々に聞いているように、地の池地獄や阿修羅地獄、火炎地獄、無間地獄、畜生道など数多くの地獄が現実にあります。ここではこれらの地獄を紹介するようなことはしませんが、これらの地獄は結局、そこに堕ちた霊の傾向性に合わせた世界になっていると言う事です。

 つまり、ある霊は先の人生において非常に利己的で他の人に愛情を注ぐという事がほとんどなく、むしろお金や他の人の愛を奪う事ばかりに執着していたとしますと、この人が死んで霊界に来ますと、自分の人生をもう一度見せられて自らが天国の人々と一緒に住んでいられるような心境にない事を守護霊などと相談しながら悟るわけです。そして、早くそうした天国の心境を取り戻そうと地獄でこの悪い傾向性の修正を図るのです。
 ですから、地獄は基本的には傾向性に合わせた訓練所になっており、その傾向性を象徴するような世界になっています。そしてそれらの世界は天国とは違って熱や光が欠乏しており、また霊太陽から来る生命エネルギーも欠乏しているために非常に暗く息苦しい世界になっています。

 たとえば、この場合は火炎地獄と言うような所へ堕ちる事となると思うのですが、この世界は灼熱の世界で非常に食べ物や飲物が欲しくて仕方がない世界なのです。そして、喉が乾いた、お腹がすいたと言って辺りをさまようのですがなかなか見つかりません。そしてやっとオアシスのような所を見つけてそこにあるバナナを取って皮を剥いてさあ食べようとした瞬間、ぼうとバナナが燃えてしまうというような事を繰り返しているのです。

 これは結局、自らの傾向性として欲しい欲しいという欲望に執着する事の惨めさを体で象徴的に体験しているわけです。食べ物を求めても求めても得られず満たされない体験から、その事の無意味さを悟るまでその世界から逃れる事はできないのです。しかし、現実にそこにそんな大変な世界が実在しているのかと言えばそうでもないのです。たとえば川を見て、ある霊はそれを綺麗な水の流れている川に見、ある霊には血の流れている地獄の川に見えるのです。

 ですから普通の執着の無い霊にとってはそれほど悲惨な世界でもない場合が多いのですが、そこへ行く人の傾向性に合わせてあるためにそうした傾向性を持つ人には大いなる反作用を受ける世界になっているのです。
 ざっとこのような霊界の構造になっているわけですが、いずれも絶対的な世界であり、そこに住む人々の心性にあった環境が展開していると言うことができると思います。そしてその心性には神により近い順に段階が区切られ住みわけがされているという事実があります。