アクエリアスの時代を切り開こう

 2節 奇跡のシナリオを開く鍵・・・経済改革

 まず、奇跡のシナリオを開く鍵の第一は経済改革です。
 皆さん、ここまで読んでこられて疑問に思われた事はないでしょうか。それは、何故、この日本にこのような改革が起きてくるのだろうかという疑問です。この一連の改革はまるで宗教革命とでもいうべき国民全体の意識改革です。現在の状態、人々が唯物論や無神論に毒されている状況とはまるで逆に、神を信じ地上に神の子の楽園を築かんとする運動です。

 現在の日本の状態を知る人は、こんな革命が何故日本を中心に起こるのか不思議にも思われるでしょう。なぜなら、現在の日本人で本当に信仰心を持つ人がいったいどれほどいる事でしょうか。おそらく、1割にも満たないのではないでしょうか。総宗教人口は2億人にも達するそうですが、そのほとんどが単なる興味半分、あるいは御利益信仰です。

 自らを無神論者と言いきる人は何処にでもいます。こうした無神論の国、日本です。しかし、世界、たとえば西欧諸国にはキリスト教が現在も残っています。裁判でも神に誓って真実を述べる事を誓ってから証言しますし、大統領も聖書の上に手を置いて宣誓します。今でも、カトリックの信者は日曜日には教会でミサに出席します。こうした根強い信仰の形態が現在も残っています。

 しかし、その実、本当に神を、主なるキリストを信仰しているかと言えばそうではありません。教会の神父でさえ、神や聖霊が本当にいるとは思っていないのです。聖書の中のそれらの記述は、人々に信仰心を植え付けるための装飾だと思っているのです。当然、死ねば終わりだと思っているのです。「神を信じれば救われる」と信者に教えていながら、救いとはどういう事かがわかっていないのです。

 救いとは、精神的な開放です。何からの開放かというと、死からの束縛です。死ねばすべて終わりなのだという恐怖からの開放なのです。信じれば救われる、何を信じるのか、それは肉体が命ではなく、肉体の中でそれを統制している意識が生命自体であり、それは永遠不滅の存在であるという事ですね。神によって創られた永遠の生命が人間の実態であるわけです。

 これを信じなさいと言っているのですが、キリスト教自体が二千年もの年月を経て当時のインパクトが失われ、その意味も唯物的に解釈され、もう現代の人々を救う力を持っていないのです。このために、形だけ残って中身が失われてしまっているわけです。

 中東などのアラブ諸国も同じです。宗教はマホメットのイスラム教ですが、その原典コーランも単なる戒律を定めただけのものに成り下がっています。人々は毎日、時間になるとメッカの方に向かって頭を地面に擦り付けていますが、それがいったい何になるでしょうか。信仰心の証だということであれば、それなりの意味がありますが、彼らのほとんども神も霊も心の底からは信じていないのです。ただ、戒律を破ると厳しい掟が待っているから、従っているだけに過ぎません。

 仏教でも同じですね。日本人も葬式の時になると、お坊さんが意味のわからない念仏を挙げて線香を焚いているのを当然としていますが、そのくせ、神仏が実際にいるとは信じていません。これは、東南アジアの他の国でも同じでしょう。
 こうした世界の状況ですが、日本には独特の雰囲気があるのです。

 それは、仏教も神道も、その他の宗教も生活の中に入ってはいますが、これこそがこの国の宗教というものがないのです。宗教的な固定色がない。このために、無神論が横行しているのも事実ですが、宗教的には自由がある。これは厳然とした事実です。
 つまり、まったく新しいものを入れ易い土壌があるという事です。もう、二千年も前の古くさい教えでは人々を救う事はできないのです。現在の人々に受け入れられる現代的な教えが必要とされているのです。

 このために、日本が選ばれたのです。そして、この真理を浸透させていく第一歩は、経済です。現在の経済の中にはまったくの自由があるからです。野放しという感じがしないでもありませんが、色々な経済活動が活発に行われていて新しい商売が次々と出てきています。

 日本経済はもう既に世界のトップレベルに達していますが、これは活発な企業活動によるものです。株式会社を始めとする企業の活発な経済活動の結果、もたらされたものであります。そして、この結果、人々の暮らしは見違えるように向上しました。昔であれば、百姓や漁業くらいしか職がなかった一般の庶民が今では、様々な企業の元で働いていますし、その給料により食品、日用品はもとより、家電製品や自動車、住宅などを購入する事ができるような時代になっています。

 これらは、日本の企業活動を中心とした経済成長の賜物です。そして、現在の人々の最大の関心も給料や会社での地位や住居や車などの経済によってもたらされる物が中心です。こうした時代には、神や霊などの純粋に精神的なものだけで何も物をもたらさない信仰は流行らないのですね。人々はどうしても御利益信仰に走ります。このお守りを買って拝めばお金持ちになれるとか、この信者になれば好運が約束されるとか、人々はこうした怪しい宗教にどうしても見返りを目当てに近づいていくのです。そうして詐欺にあったり、様々な変わった事件を起こして周りを驚かせたりしています。

 しかし、良く考えてみると、結局人々が最終的に求めているものは自分の幸福であるわけですね。それを得るためにはお金や地位などが必要であると思い込んでいるわけです。また、それに欲望が重なってきてどうしても欲しいと執着しているのです。しかし、求めているものは幸福感であって物ではないわけです。物がいくらあってもそれで幸せになれるとは限りません。逆に、物などそれほど無くても幸せになる事もできるかも知れないのです。

 幸せな感覚とは、実は精神的な充足感と非情に近いのです。精神的に満ち足りた時に確かに幸福な感じがしますね。そして、それは長年の努力が実って重役に昇進した時とかの場合とも一致する事もあるでしょう。でも、地位が与えられたからではなく、長年の努力の成果が満足すべき形で与えられた事に幸せを感じているのです。ですから、単に地位だけ与えられても明らかに自分にその能力がないとわかっている場合はこれ自体が不幸になる場合もあるのです。
 要は、自分の精神的な、受け止める状態によるわけです。受け止め方の問題なのです。この意味で何事も幸福感を受けるように受け止めれば世の中はすぐにバラ色に変わります。精神的なものが一番幸福に影響するのです。

 こうした意味から、現在の経済活動の中に真理価値の導入が絶対に必要であると思うのです。ここでいう真理価値とは、その経済活動の結果、人々や社会をどれほど幸福にしたか、良くしたかという指標です。
 つまり、現在の経済活動は単なる利益の追求です。目的とする物は投資した以上のお金です。お金や地位を稼ぐ事を目的としているのです。しかし、お金という物は本来、価値中立な物であってそれ自体が善でも悪でもありません。お金の使われ方で善悪が決まる物なのです。残忍な事を考えている人がお金を持てば大変な事をしでかし、人々を混乱に陥れるでしょうし、逆に福祉を重要視している人がお金を持てば施設などは寄付により大変助かるでしょう。

 このお金の使われ方に対する価値観がまったく欠如しているのです。これを真理価値と言いますが、同じお金を使ってもパチンコなどで全部無くしてしまうと悔しいだけですが、もしそのお金を何か困っている人に用立てしてあげて、その結果相手に大変感謝されたらとても気分が良いですね。この二つの場合でも現在の経済原理では同じです。共に、一万円なら一万円の出費です。しかし、その行為によって本人や周りが受ける感覚はまるっきり違うのです。

 真理価値においては大変な差があるという事なのです。この真理価値が経済原理の中に導入されなければならないと思います。そうすれば、単なる経済活動の量だけではなく、その質が問われるようになります。たとえば、地方に企業が進出する場合がありますが、単なる法人税や固定資産税の増収だけの価値ではあまり意味がありません。逆に、森林の乱開発や大気汚染、水質汚染などの環境汚染に結びつくかも知れません。こうなれば、真理価値からすれば完全にマイナスです。

 社会自体が真理価値を追求する体制になっていれば、こんな会社は進出する事自体ができなくなります。「あなたの会社は私達の地域にいったいどのような貢献をしてくれるのか」という目で判断していくべきなのです。また、逆に企業の方は自分の会社のサービスは、あるいは商品はこのような特徴があり、これだけ人々に幸福感を与える事ができるとPRすべきなのです。

 すると、青少年を非行に導くようなサービスや商品などは販売できなくます。真理価値がないからです。利益に結びつかなくなるわけです。現在の経済はそうではありません。玉石混交です。良い物も悪い物も同じように扱われています。すると、企業は結果など考えずに、利益の上がる物だけを追求しますから、中には社会にとってマイナスなサービスや商品も横行します。その結果、確実に害悪が現れてきます。

 ですから、真理価値の元に企業も国民も意識改革をしなければなりません。真理価値のある経済活動が利益を生むような体制を整えなければなりません。そうでなければ悪の行為がのさばり続けます。人々も自分や社会にとってより幸福な結果を与えるサービスや商品を選択し、企業も積極的に少しでも高い真理価値を持つ活動を目指すような経済にすべきなのです。
 こうなれば、自分の会社の発展を願ってする企業の活発な経済活動が結果的に社会をどんどん良くしていく事になります。人々が住み易く、楽しく生活していける社会に近づいていくわけです。